たったひとつのさえたやりかたいがいのなにか

卒アレの件は何とかなりそうだと勝手に思い込んで、春めいてきた喜びを片手に、ヘキサーをもう一方に持ち、街へ出よう。なんつって、六本木。映画を見終わって出てきたら暗くなりやがってたんだけど、広尾の方まで歩いて母校周辺の変化と無変化にもうなんていうかたまらなくなる。あれから6年以上すぎて、それでも思い出すのは合格発表の帰りに花屋の前でこれからスーパーファミコンが好きなだけ出来るって思ったことだったり、女の子という人種の存在を再発見した中3の春先だったり、購買部で買ったゴムボールを使って中庭でやったサッカーだったり、腐臭のする柔道着だったり、事務所の前でイラン人から買ったテレカを使って*2*2って打ち込んでた人だったり、マンガ週刊誌の分担購入だったり、喫煙所のバカ話だったり、中2で取り壊された自治棟だったり、その後新しく出来た図書館棟で見た画集だったり、放課後の校庭で東京タワーを当たり前のように眺めながらアロエドリンクを直飲みしてた夕暮れだったり、昼休みのトリチュウでの適当なラーメンだったり、冬時間後の早速の遅刻にもかかわらずぼけっとセレブテニス場脇でジャンプ読みながら飲むホットの午後ティーだったり、学年ごとに変わる通学コースと溜まり場だったり、水曜カレーの2杯食いだったりする。あぁ、なんだか色々と忘れてしまった気がする。あまりにも世界も視野も狭くて、自意識ばかりデカかったなぁ。全部やり直したい気もするし、要所以外では間違えてなかった気もする。このところ、過去の自分全てが自分じゃないように感じる。人は寝るたびに死んでいる。


つまりは春なのであって、フィルムは何を写すのだろうということだ。