うのうとくのう

ぐわーっと思う。時間が足りないと。しかし、後を振り返ってみれば、無為に過ごされた時間が、さながら死屍累々といった趣でダラリと横たわっているのだから、足りないのは時間ではなく学習とかそういうものなんだろうな、というこの反省はいったい何度目なのだろうか。いや、むしろ「この反省はいったい何度目なのだろうか」という反省は何度目なのだろうか。なんて調子に、一昔前なら「まぁ、オレってダメ人間だし」とか言って自己憐憫的な腐臭の漂う自意識撒き散らしていたかもしれんが、とっくの昔にそうした時期は過ぎたのだろう?そうでなければいけないよ。なぁ、オレ。さぁ、オレは今、どの視点に立っているのでしょうか。知らんよ、楽しげな浪人時代のオレよ。


ようするに、現時点では何者でもないものが何者かになろうとする足掻きの一つのメジャーな形がシュウカツってヤツなのだよ。何者かになれないならオレは、何者でもないまま一つの糞袋として存在したほうが、リアルにマシってもんだ。なんてのはただの強がりであって、それでも、オレは食っていかなきゃならんし、時には食わせていかなきゃならんし、そういうなかでも楽しんでいかなきゃならんってのは、どう言い繕っても非常に苦痛という他ないだろうよ。夢も希望も無いってヤツはこれまで経験したことはなかったけど、それに非常に近い状態になっちまうんだろうなってことは痛いほどわかる。そういうオレは今現在今日昨今この瞬間何者なのだ?はは、これって自分探しなのかな。違うよ、自分をある地点へと持っていく戦いだよ。そうか、戦いか、じゃあ敵は誰だ?敵は誰だ?敵は誰だ?


「あえて」って言葉が実にスイートに聞こえてた時期があった。何するにしても「あえて」って付けてれば滑稽な自分を滑稽なんだよってわかって動いてんだよって、誰でもない自分に説明できたわけだ。いつ頃から「あえて」って言葉を頭ん中で使わなくなったのか、よう知らんけど。そういう時期もあったって話だよ。オレが思う、オレの最もモラトリアムだった時期の話だ。なぁ、大学1年生のオレよ。


平坦な戦場、ありふれた日常、1/3の純情な感情の3ジョウが90年代のジョウベスト3だと思う。


さてと、明日は本を読みつつ、ESを2つくらい書き終えることにしましょう。そんで、今日買った瀬尾まい子の本を読んで、ちょっと気になってる本谷有希子の本と「腑抜けども〜」の載った群像のバックナンバーを探さねば。ちなみにオレは同じ名前をまったく違う場所で2回聞いたら、もうすげー気になっちゃうタチです。今回はQJ三島賞だったってわけね。わー、単純。