ほろほろ

小学校の同級生からクラス会をしようってFAXが来て、それで俺の下の名前ってちょっと読みづらい名前なんだけど、だから普通は漢字で書いてあって「なんて読むの?」とか聞かれるんだけど、今回のはそうじゃなくて俺の下の名前の読みがひらがなで書いてあって、そうだよなって思った。小学校ってのはそういうところだった。それで、俺は幹事の女の子の名前を眺め、言い知れぬ懐かしさを覚えた。凄くきれいな字を書く子だった。


俺は小学校時代って、というか小学校っていう場所にあまり良い思い出がなくて、よくいる塾の方が楽しいって子供だったもんで、しかも中学から私立だったからその後もすげえ疎遠になっちまって、負の記憶の清算って出来てねえのです。中学時代に中途半端な懐かしさで中途半端に会ってそれで勝手に遠さを感じたりしてる分、なおさらってもんで。それだから、今回はなんだか無性に会いたいというか、会ってみたいと思ったりしてる。きっと、ギクシャクするし、そこまで愉快なことにはならないって、正直わかってるんだけど、それだったら俺はまた、自転車にまたがって帰れば良いのだ。まったく、違う人生を歩いてる人たちに、結局、出会わなかった僕たちに会いに。


別な話、今、俺が小学校時代を思い出すと、その記憶の中の俺は今の姿のままで、それは中学時代でも高校時代でも同じで、自分が変わったということを自覚することにひどく違和感がある。たぶん、その過去の自分と記憶中の自分の断絶こそがセンチメンタルなんだと、そんな風に思う。思い出の中ですら、俺はボクには戻れない。これがもどかしさと切なさ以外のなんだろうか。


小学生時代つながりでついでに書いておくが、小学校のころ「今」ってなんだろうと思って、気が遠くなった。今を「今」だと考えた瞬間に過ぎた時間の渦に飲み込まれてくような感覚に酔った。今ってのは点で、時間は線だから、でも点ってのも線だから、点をもっと点にしないといけなくて、純粋な点ってのが想像出来ない以上、今ってのも想像できなくなったりしてた。だから、時間の中には遠い未来と近い未来と近い過去と遠い過去しかないんだろう。まるで、高速道路を走る車の窓から、外の景色を見ているようだ。そんなことを後部座席に寝っ転がりながら考えた。そして、今、音楽とか物語に無性に惹かれるのは、それらは点を点のまま感じることができるからなのかも知れない。


思い出はなんてもんは簡単にフタがしてあるだけで、ちょっとしたことでそのフタはぱっかり開くんだけど、その中ではやっぱりそのままでいられるもんなんてなくて、発酵やら酸化やらが進んでる。美味しくなってるか、犬のエサにもならないかってのはわからないけど、とにかく、どうやらこの宇宙ではそのままでいることが一番困難なことみたいだ。


大きな素振りで振り返ると何かが溢れてとまらないんだけど、それはそれでとても好ましいことだと思うからただひたすら流れるに任せる。それが最近のスタンスの御様子。