ふれわかりまざり

「本当の」とか言い出すととたんに観念的になる。観念的になることがことさら悪いとは思わないが、「本当の」なんていうのは明らかに答えの出ない類いの問いであって、答えのでない問いを問い続けて終わるようなのは、僕は謹んでご遠慮いたしたいのだ。ただし、こんなことを言ったって「本当の」とか「永遠の」とかで人は悩む時期、季節、気分があるものだし、現にそうした人々を、そうしたことに悩みつつ平気な顔を作って日々を過ごす人を、否定したいなんて思わない。今だって僕もまた、平然と必死にやってる一人なんだ。


そうして、必死にやってることの意味を必死に考えている。この意味ってのはもう丸出しの観念で、出来れば避けて通りたいのだけれど、それは高望みが過ぎるというものなのだろう。だから、そいつを見つけたり見失ったりして、そうしてなんとか毎日をやり過ごしているようなものなんだけど、そういうあれこれを違う場所から見て、聞いて、感じて、考えてくれる人ってのが、たまに欲しかったりする。そのかわり、僕はその誰かのあれこれを、まるで自分のことのように、見て、聞いて、感じて、考えてしまいたいんだ。




まったく、誰かといい仲になるってことがなんでこんなにやっかいになってしまったのだろう。高校生のような下心はめっきり消え失せて、ってそれは言い過ぎかも知れないけどまぁ1/5くらいになって、じゃあ、なんで付き合いたいのよ、なんのために付き合いたいのよっていう誰にも聞かれてない問いの答えを出すのに、こんなにも見苦しい思考を重ねている。そうして絞り出した答えも、誰を納得させるにも物足りないような気がするし、それでいて思いのほか多くの人に理解されてしまいそうな、そういう類いの、つまりは、聞こえの良いありふれた言葉だ。そんなのでも、僕を駆動させてくれたならまだマシだったのに。


要するに、下心なんていう混ざり物の多い燃料で、あとあと燃えカスの処理が面倒なものであっても、僕を前に前にと押し出してくれるだけ良かったんじゃないかとか考えてしまってるということだ。今、燃料にしようとしている混ざりけの少ない何かは本当に、僕一人で、作り出すことは出来るのだろうか。仮に出来たところで、それはきっと燃えカスも綺麗なもんだろうけど、問題が推進力だったりすることもあるんじゃないだろうか。


畢竟、僕は答えのでない問いを独りでこねくりまわすのが好きで、好きだからこそ、避けておきたいってだけなのかも知れない。あぁ、そんなこと、とうにわかってる話じゃないか。


願わくば、2年後の僕が、この文章を読んで、腹が捩れるほど爆笑、乃至、苦笑をしてくれますように。