ぶっせい

まぁ、なんとかなった。こういうのはなんていうか、何度やっても毎度毎度、本当に手探りだからグルグルする。それでも何とかやってくしかないんだなぁ。砂場遊びで山を作るときのようだ。最初はとにかく砂をドンドンと積んで、それからググッと圧縮して、それで固いものになっていけばいいんだろうけど。それには潤いだって必要だったりする。壊れるときはあっという間だ。


それにしても日常とか関係とかに生産性を求めるってのは、どうなんだろう。いや、生産性。考えてしまうんだけど、一見、生産性がない関係性だってどっかしらで役に立ってるだろうし、必要だよな。むしろ、生産性だけしか考えないような関係性こそ貧困というか。誰かに何かを常に求めるというのは傲慢だってことか。




えっと、別の話。通俗的な意味でのポストモダンな姿勢の話なんだけど、僕はもうポストモダンを取り立てて話をするのって、つまらないというか、ポストモダンは全部並列っていう物凄く単純でアホらしい話になるから、それだけわかり易くて魅力的ってのは頷けるけど、あんま得るものはないなって思う。ってかポストモダンなんて言ってるけど、それは並列化ですらなくて、権威の源泉がより理解し易いものになったってだけで、ただの世俗化(もっと意地悪く言えば民主化)に過ぎなかったりすることの方が多い。そういうのは構造の変化じゃなくて、ただの縮小再生産に過ぎない。


で、近い未来の話。ポストモダン、もしくはエセポストモダンの後に立ち上ってくる状況、あるいはポストモダン的にポストモダンを消費する果て、つまり、ポストポストモダンは結局のところ、ある種のモダンになる気がするし、実際にそうなってるんじゃなかろうか。それは反動と言ってしまえば、それまでなんだけど、こんなのは70年代の学生運動が別の権力構造を生んだだけで終わったって話みたいなもんだ。以前の僕は、そういうなんらかの構造的な文脈に回収されない反抗という可能性があると思ってたし、インターネットがそっち側に機能するとしたら、すこしはマシなヴィジョンになるとか一時期考えてた。要するに、一つのアナーキズム?まぁ、それでもインターネットなんざ、分権にも集権にも機能する道具でしかなくて、そんな甘い夢を見続けられるような場所じゃないってことがもう明らかになってるし、きっとそっちの道はないんだろう。ということで、ある種のモダンの話だけど、そういう夢想とは別に、権力や権威ってのには正当なものってのがあると思うし、その正当性ってのに今、敏感でなきゃいけないんだろうなって思う。それはつまり、良いものは良いって姿勢の背景で働くメカニズムの話だったりする。その奥底にあるものを考える。今、僕のモードはこっち。