これから

このところ、id:paramondさんのところで、興味深い話がされていて、実のところ、昨日の話はそれを反映したものでもあるのだけれども、それにリアクションが貰えたので、もうちょっとちゃんと考えてみようかと思っている。ただし、やっぱり立ち位置の違いや、抽象的な話をする際に必須な用語の定義付けが今のとこ曖昧なので、僕としてはここであまり厳密な話をしよう、もしくは出来るとは思っていない。これは氏のいうところの「あえて」であるかも知れないというエクスキューズは初っぱなから放っておく。


今のところ、全面的に共感出来るのは以下の話だ。

編集作業をするのは編集者じゃなくて読者です(編集者の仕事は編集作業だけにとどまらないのが実際ですが)。読者は自分なりに編集をして、自分らしさを出すためのネタとして利用します。インターネットがその典型であるように、組み合わせによる価値の創造、ではなく自己表現という編集作業をするのは読者です。

この話と関連して、僕はここ数年、知り合った人にはどんな雑誌を読んでるかを聞くようにしているのだけども、それは正に、昨今の雑誌は純粋な情報とは別に、イメージとして消費されているという実感から来るものだ。雑誌がある種のイメージを伴ってアイデンティティの一部として組み込まれていくのは、70年代の学生運動期における朝日ジャーナル、ポパイ等を代表として、以来、一般に浸透していった現象だったと思われるけど、90年代以降はアイデンティティを雑誌に擦り寄らせるという逆転現象が起ったように思える。言うなれば、雑誌自体がファッションとして消費されるということだろうか。現在では、その人がどんな雑誌を読んでいるかは、その人が他人にどう見られたいかを、少なくとも一面では表している。


このようなアイデンティティ化効果(上では「ネタ」と呼ばれているようだけど)を主眼として狙ってきている雑誌を、僕は「囲い込み雑誌」と勝手に名付けている。こうした雑誌の特徴は、向けられた対象がかなりハッキリしていること、読者に語りかけるような文体(馴れ馴れしいとは限らない)を用いること、もっと顕著には「○○世代(○○には雑誌名)」なんて言葉を勝手に作ったりすることだ。おそらく、このような方向性はそれにオリジナリティがあればあるほど(もしくはニッチなものであればあるほど)、最初はうまくいくことだろう。ただ、こういう雑誌はすぐ追随者が現れて、陳腐化して、さらには、そういうムーブメントの当事者だと認識されすぎるあまり、一過性のものとなる危険性がある。とはいえ、このようなアイテム化は、雑誌の方向性として、残された数少ないものうちの有力な一つだろうし、ライフスタイル系という雑誌はことごとくコレを狙ってる。というか、どこまでをライフスタイル系雑誌と定義するかは別として、ライフスタイル系という雑誌の本質はココにあると言える。そして、現在、一般的な雑誌のライフスタイル雑誌化が進んでいる背景も、同じくココにあると、僕は勝手に思っている。


それで若干、違和感があるのが次の部分。

良いものは良いって姿勢の背景で働くメカニズムの話だったりする。その奥底にあるものを考える。

自分がいいと思うものを見つけて、作って発信すれば、それをいいと思う人が買ってくれる。買ってくれないにしても、いいと言ってくれる。それはヒエラルキーの崩壊を迎えていない出版業界には、依然としてそういう姿勢は多くはびこっていています(なぜならば、競争原理にさらされていないから)。いいと思うものを作ることが彼のいう「縮小再生産」の方向に向かわないようにするには、編集者のセンスによるところが大きいわけです。しかし、それは博打性が高いのも事実です。

全面的に僕が乱暴に書きすぎたのがいけないのだけど、ここはちょっとズレがあって、まず、僕が言う「良いものは良い」というのは、万人、とまでは言わなくても、ある程度多様な属性を持つ多くの人が共通して良いと思うものの群に共通する特徴って何だろうっていう話だったりする。というか、もっとラディカルに人が「良い」と思うことはどこに由来するのだろうってことまで含めて考えたいと思っている。これは氏の言う「センスに頼った博打」状態から抜けるヒントを探すという行為に当たるのかも知れない。その意味では、問題意識そのものにはズレはあまりないのかも知れない。


これに関連して、ちょっと気になったのは

(ヒットする)確率を上げるためにたくさん作る

という部分なのだけど、たくさん作ったところで、それは確率を上げるものに繋がるのかという疑問だ。感覚的にはたくさん作ることは一つ一つの質を下げ、結果的には確率を下げそうな気がする。個人的な理解では、現在の出版業界はたくさん作ることの害を十分に理解し始め(といっても企業として利益を上げ、成長するという目的のもと粗製濫造は、依然として行われているのだけれど)、今は、マーケティングという手法が注目される段階に来ているように思える。まぁ、それにしたって今さらなのだが。


それと、「縮小再生産」という部分だけれども、これは僕の中では、権威の付与されるルートがアカデミズムやらなにやらのものとは別に、ファッションやらわかり易さやらを源泉としたとした別のルートが構築されただけであって、権威が解体されたわけじゃなくて、それを受け入れる側が分割されただけに過ぎないのじゃないだろうかという意味であって、僕はこの状況自体については必ずしも否定的には見ていない(もっとも、受け入れる側が分割されたということは、市場のパイが限定されるということで、それは商売に明確な影響を与えるだろうけれど)。ただ、こうした状況を「ポストモダン」という言葉でもって大まかに括るのは、表面的な理解にしか留まらないんじゃないだろうかと危惧している。要するに、権威の付与システム自体は保存されているのだから、その中のメカニズム、すなわち「良い」と「悪い」の判断基準というものを考える余地はあるし、意味もあるのではないかということなのでした。


あぁ、ちょっと疲れたし、タバコも切れたんで今日はこのへんで。えっと、ここまでとこれからを振り返ると、まず、これから出版どうしようか?で、その中でも、どういうものを作ろうか?って部分であって、そこに今ってどういう感じ?っていう話があるということだな。どういう感じっていう部分ではちょっと判断つきかねるものの、どういうもの作ろうか?って部分で、僕としては、まず、良いって何だろう?から初めて、欲しくなるって何だろう?って行って、それで得られた何かを何とかして自分の分野に落とし込もうという魂胆ですっと。難しいことには、一番始めの、これから出版どうしようか?って部分はまだまだ考えるべき要素が多々あるということで、どういう風に広告取ろっか?ってこととかも関係してくるってことだよな。そんでもって、出版という業態を、これまで通りの書籍と雑誌(とムック)なんて具合に限定して考えることには、すでに意味がないということであって、そうすると、出版社が保持するコアコンピタンス、つまりは独自性や優越性はなんだろうというところまで戻る必要もある。まぁ、これは出版社総体における一般論と各々の出版各社それぞれの特別論がありますが。