都築

まず、なぜ良いと悪いなのか、それは僕の理解では良いと悪いを判断する力こそ権威であるから。つまり、正当な権威とは、良い悪い判断において、それを受け入れるものの個々の観点から一定の正当性を保持していると言える。その正当性というものが普遍的なものであると言えるかどうかという点、つまり「良い」の普遍性については今回はなるたけ考慮しない。なぜなら疲れるから。じゃなくて、たぶん、それは論理じゃなくてイデオロギーで、僕はそんなに夢見てらんないから。で、この場合の「良い」とは何かって部分が、正当性に大いに関わってくるわけだ。あ、なんで正当性にそんなこだわるかって言ったら、それは権威が死んだからですよ。それでまぁ、僕たちは死んだ権威を選び直す必要があるんだな。そんじゃなんで、権威を選び直す必要があるかって言ったら、押し付けられたものでない権威はアイデンティティと同質の働きをするからだよ。アイデンティティも権威も受容と疎外の判断基準だと思うのよ。まぁ、片方は規範なんだけど、そんなんはどうでもいいや。つまり、人と接する際にその人がどんな嗜好、思想なんでもいいけどそういうのを持った人かってのを知ることは、円滑にコミュニケーションを得る際には欠かせないわけで、そうすると僕たちが何を信じているか、もしくは信じていないか、価値をどこにおくか、まぁそういうもんが共有まではいかなくても、少なくともある程度は理解されないといけないわけだ。そこで、僕たちが権威を受容する意義が出てくるのよら。もっと悲観的に言えば、人間が弱いからだ。だから、権威は選び直される必要があって、でも、それは死んだもので、かつてに比べれば、選択可能性はあるし、概念自体にバーゲニングパワーが要求されてると、そこに正当性が求められると、まぁ、僕はそんなふうに勝手に思ってる。


あ、言い忘れたけど、僕は今回、全編を通して、別に哲学をしたいと思ってるんじゃなくて、もちろんしたくないとも思ってないわけだけれど、まぁ、「哲学する」なんてわざわざ宣言するのは、他人の言葉で語ることになりそうで、まぁ、乱暴に言えば、それは余所の土俵に乗りますよってことに他ならない。それは本意じゃないし、僕としては自分の目的に役に立つ理解が得られれば満足なので、そんでそれがそんなに簡単に得られるとも思ってない上に、書きながら考えてるわけで、当面のところ際限なく拡散してくだろう話に必要以上に余計なもんは考えたくないのです。役に立つようなら使いますけれども。そんなわけでこれは本当に興味がある人だけ読んで、それでもっと興味がある人はそれぞれで考えればいいような類いの文章なのです。願わくば、その成果やら経路やらを知りたいとは思うのだけど、わがままは言いません。


で、ここで、「良い」という概念が広過ぎるなぁって僕は今、我ながら思ってるわけで、だから以降は「良い」概念をちょっと整理してみようと思ってる。まぁ、今パッて思いつくのは、物質付随の良い、客観的良い、主観的良いの3種類なんだけど、あぁ、でも物質付随の良いってのはあまりにもアンティークか。まぁいいや、続きはまた今度。